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入れ替わる双対の流れ

この前、こんなツイートを拝見しました。

お金とは何なのでしょうか。そしてお金によって定められる価値とは何なのでしょうか。この出来事からは非直観的な、事実のつながりが秘められているのを感じます。ということで、今回は価値を手掛かりになにか考えていきたいと思います。

みなさんは真理がなんであるかを知っていますか?真理は、誰にでも開かれている叡智です。ごく一部の人にしか理解することのできない事実は、真理ではありません。なぜなら、理解できない人にとって、その事実は真理たりえなくなるからです。誰にでも理解できて、誰にでもその事実を証明できるから、その事実は真理たりえるのです。真理とは 誰にでも理解できるという普遍性によって特徴付けられる叡智 のことなのです。原理的に[誰でも理解できる, 誰でも利用できる]、という情報が真理であり、正しいということです。なにか自分が理解できない概念があったとしても、それは自分が馬鹿だから理解できないというわけではないのです。その概念が、そもそも真理ではなかったか、あるいは伝え方が不適切だったからわたしには理解できなかったというだけなのです。正しい知識というのは、誰にでも理解できるからその正しさが保証されているのです。理解できないことがあったとしても、それは伝える人が下手なだけだと考えることが、真理を捉える最初の方法です。

オープンソースで公開された機能は、上で考えたような真理を、三次元的宇宙において具体化した出来事だと考えることができます。なぜならオープンソースで公開されているというのは、原理的には誰でもその機能を利用することができるように提供されているということだからです。これは真理の三次元的宇宙における表現の一つだということです。真理はすべての人に提供され、常に供給過多であって、全人類の需要を常に満たし切っているために、お金に変えることができなくなりました。正しくあろうとすればするほど、そのサービスは公平であって、提供する特定のターゲットを絞ることができず、お金に変えることができなくなりました。ごく一部の人だけにサービスを提供することによって、正しさや公平さを失うかわりに、対価によってサービスを提供できるようになりました。正しさの対義語は誤りではなく豊かさなのかもしれません。人間は、一人ひとりの中に様々な側面を抱えています。一人一人が多様性を持っています。人間は豊かな内面をもっています。誰にでも理解できる正しさと、ひとりひとりの内にある豊かさ。私たちの人生は、正しさと豊かさの互いに双対する二つの側面が調和して描かれています。私たちは、どうやったら自分の人生を豊かにすることができるのでしょうか。

人間は、存在するだけで正しさを獲得します。なぜなら、存在しているということは誰にも否定することができないからです。だれもが、存在しているということを理解することができます。わたしが存在していること、あなたが存在していることは、いまここにある真理です。一方で、豊かさはどうでしょうか。日々生活していて、自分が無気力にただ存在するだけでは、あまり豊かだと思えないときがわたしにもあります。もちろん、物理的に同じ状況でも、自分の豊かさに目を向けることができるときもあります。ともかく、豊かさを保証するのは誰にでも理解できるような真理ではないということです。ひとりひとりが多様な価値観の中で、自分の人生を豊かさで満たせるように、視点を選んで生きています。

物事の多様性は、時間の経過とともに失われていきます。経験を積むほどに最適な方法へと解が収束していき、物事が均質化していきます。世界のエントロピーが増大し、区別できていた多様なあり方が、混沌の中に落ち込み、一様で均質でほかと区別できない状態、誰もがただ一つを指し示す真理へと回収されていきます。豊かさは、存在するだけで正しさを次第に増していき、いつの間にか真理の中に組み込まれていくようになります。正しさと豊かさの双対関係には、豊かさから正しさへ向かうエネルギーの流れが自然に存在しているように見えます。豊かであり続けるには、自分が存在している正しさから飛び出して、動き続ける必要があるのかもしれません。本当でしょうか?

こうした思考が発生する理由、それは”正しさ”という言葉を使っているうちに、使っていた”正しさ”の意味がすり替わってしまったことによります。自分でわかっているつもりになってしまう言葉こそ、しっかり定義して使いましょう。不可視のミームがいつの間にか言葉に紛れ込んでしまいます。ということで言葉を定義します。

ぼくたちは流れの中にいます。流れと一つになっています。豊かさとはわたしたちという流れの量のことであり、 正しさとはわたしたちという流れのサラサラ度合いのことだと宣言します。つまり、正しいというのは誰にでも開かれていて、サラサラしていることであって、豊かだというのはその流れがたくさんあることだ、という世界を見てみましょう。

お金というのは、わたという経済を表現する一つの側面に過ぎなかったように感じてきます。豊かさにはお金以外のもっとたくさんの表現があります。サラサラして、流れが加速して増えていって、ますます流れがサラサラになる。エネルギーがながれて循環して、いやさかにひろがっていく。指数的に加速するエネルギーの循環は特異点の周りで正しさと豊かさの意味を繰り返し入れ替えていく。すべてが現実になる。