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世界をおやりになる

こんにちは。ねんてんです。多様性してますか?ダイバーシティは、あなたです。


文脈の表現方法

専門家によれば、人は幸せになるために生きるといいます。僕が大学に入学した日に勧誘されて1ヶ月でやめた仏教系新興宗教サークルでも人は幸せになるために生きると言っていたので間違いありません!!!!!!!!!!!

とはいえ、人は幸せになるために生きるというのは、トートロジー(同語反復)にすぎません。 ‘幸せとは何かということ’ も ‘生きる目的は何かということ’ もどっちも同じくらい意味不明で、人生の答えになってへんやんけ。 ‘幸せの意味’ も ‘人生の目的’も、見ず知らずの宗教なんかに任せられへんわ。

目的とは 自分の望ましいことの社会的な表現であり、幸せとは 自分の望ましいことの個人的な表現です。目的も幸せも、自分が求めていることをどこで表現するかという方法の違いでしかありません。人生の目的は幸せになること、というのは、一見トートロジーに見えます。しかし、目的幸せは大きな違いを持つ可能性があります。人は表現をするとき、受け取る相手によってその形を変えて伝えるからです。

人は幸せになるために生きるという言葉が正しくなるかどうかは、幸せ目的が本質的に一致している世界に、自分が生きているのかどうかによって決まります。社会的な表現と個人的な表現が、一致するのかどうかということです。こうした問いを通して、自分が生きる世界の性質がすこし分かります。 ‘幸せという内的な感覚’ と ‘目的という外的な感覚’ が一致する世界に生きているのかどうかということです。

これは自分の目的あるいは幸せを自分自身が決めているかどうかという、人生の再帰性の実現に関する問いです。

何が当たり前で、何が当たり前ではないのかによって、言葉の価値はあまりにも変わってしまいます。そういう時は、言葉をメタに捉えると、具体的な言葉の価値を離れて意味を捉えることができます、たまに。

トートロジーな表現は、一見それ自体では意味を生み出さないこともありますが、メタに捉えることで、その言葉が意味を持ちうる世界に注目することができます。トートロジーが示す意味は、言葉の外——なぜその言葉を提示したのか、という文脈へ展開されていきます。

トートロジーな表現は、それ自体ではあまりにも意味がないがために、意味を見出したがる人間たちの無意識に、文脈を読ませるための誘導をかけることができます。あるいは無意識に対してではなく意識的なコミュニケーションとしても、文脈を伝達するトートロジーがつかわれています。


人は幸せになるために再帰する

人は自分の根源や信念に一致している現実にはなんの感情も、印象も、抱きません。トートロジーな現実に対して、人は即座には意味を作り出しません。

自分の根源・信念と比べて、現実が正しくなかったり、誤魔化しや嘘、間違い、予想外があるときにこそ、喜んだり、悲しんだりします。人は感情を得るため、知らないもの・物珍しいものを求めます。世界を色付ける狂気的な信念は、当たり前の世界を飾り立て社会をつくり、偽りの中に喜びを感じます。あるいは社会を完全に理解した社会人は、生を超えた先の究極の未知を求めて旅立ってしまうかもしれません。

人は幸せになるために生きるという言葉には、ひとつの誤魔化しがあります。

幸せになるには、二つの方法があります。 ‘幸せだと決めてある何かを選ぶことで幸せになる’ のか ‘決まっていることをそれが幸せなのか幸せではないのか選ぶ’ という二つの方法です。しかし、幸せかどうかということは、実は、決して自分だけではわかりません。

思い出してみましょう。人は幸せのなかにあるとき、無心になります。自分が幸せなのかどうかを観察する自分がいなくなります。そのとき自分は世界に深く潜り込み、一体化しています。

自分が社会的に承認されて、自分の信じた社会性の中に埋め込まれて、自分を問い直す自分の影が消え去ってしまっているとき、人は幸せになっています。

人が幸せになる時、人はもう問い直すことのできない世界と一つになっています。そのことが、幸せになるために生きるという言葉の一つの誤魔化しです。人は幸せになるために生きるという言葉は、世界に潜り一つになるために生きると言っているのと同じことだからです。これはとても強烈です。もちろん、自分を救い癒すこともできますが、意思を失い世界に自分を明け渡すことになるかもしれません。自分で自分を決定づける再帰性への信仰無しでは社会中毒になってしまうかもしれません。それはそれでいいものですが、薬が切れたら後悔するかもしれません。社会は化学物質より不確かな幻覚かもしれません。

世界と一つになるのかどうか、決めるのはあなたです。

人は自分が世界と切り離されてから、自分が幸せだったのかどうかを問い、その答えを知ることができます。幸せかどうかを決めるには、自分一人ではなく、自分と切り離された世界もまた、必要になります。

もし幸せではなかったとしたら、何度問いかけても問い続ける限り自己と世界は切り離され、世界に潜ることもできず、ただ苦しくなるだけかもしれません。

しかし、世界に潜ったから幸せが約束されるとも限りません。一体化していた世界がただ小さく、ただ思い込みにすぎず、現実の多様性が、一体化した世界の外側に存在していることがわかった時には、世界認識や世界との一体感が崩壊し、驚くことになるでしょう。

すでに社会との梵我合一を果たし幸福の絶頂に達している人にとって、魔法使いや幽霊、宇宙人など、人々の多様性は、予想外の異物として知覚され、自己と社会の一体感を、幸福を、破壊しようとする侵略者として受け止められることもあります。単に住む世界が小さすぎただけで、現実の多様性に目をつぶっていたから今になって驚いているだけのことなのですが、なぜか争いが生じているように見えます。かわいそうですね。暖かく彼らを迎えてあげましょう。

実際に幸せになるには、任意の社会性のなかで、没頭できることをやるといいです。そうしていると躁になるっぽいです。たいしたことでなくても、その社会性のなかでの社会的にいいことを、ガーッとやっていくと、興奮して、眠れなくなって、気持ちよくなります。集中力が解けても、社会性は解かれずに、潜り続けたままだ。

安心して没頭するためには、十分な自己決定能力が必要になります。自分が社会や世界に注意力を奪われているがために今ここで生きているのだと感じている間は、いつ深海へと引きずり込まれるのかという恐怖のために、世界に潜ることなどできないからです。しかし、たしかな幻想だとしても自分で自分を決定できているのであれば、集中し、世界になることができます。

一方で深い思考は世界に埋まった意識を再構成します。世界に対する理解と自己のコントロールを生み出します。世界の選択と創造の手がかりです。


1の構造

自己とは一体なんなのでしょうか。あなたや、わたしとはなんなのでしょうか。存在とはなんであって、何が存在と非存在を区別しているのでしょうか。

存在を区別するために、人間はなにか知覚から意味をみつけているといいます。しかし、意味を見つける前にも私たちは存在しているでしょうか。わたしとはなんなのかを問うとき、意味を介在しない実在にはなんの意味もないでしょう。その意味で、わたしとはなんなのかを問うことができる自分にとっては、素朴な実在のわたしを考えることは役に立ちそうもありません。

しかし、幸せになるわたしを考えるときには、自分自身を問うことのできないわたしを考える必要があります。幸せになるときのわたしは、わたしの意味を問うことがないわたしだからです。無意識から自己を切り出す前の私たち、赤ちゃんやラリったジャンキーは、ときどきoneness(ワンネス)に至っている、すべてが一つになっているといいます。

一つになったわたしが自分を問い直すことはしないかもしれませんが、冷めているわたしが考えます。無意識と意識、世界と自分を区別する前の状態において、自己や世界は一体どのようなものになってしまうのでしょうか。

たとえば自己認識の方法はきっと、自分自身によって自分を認識するはずです。自分以外には何もないのですから。これは自己を捉えるのに再帰性を利用するということです。自分で自分を認識するだけなら、onenessがなくてもできそうですがonenessではもっと強いことが言えます。それは、社会的な関係性や、束縛条件などの、外部的な概念を利用することなく、自分を定義してしまうということです。自己=世界だからです。 自己=世界 であるonenessにおいて、わたしの世界認識もきっと再帰しています。世界自身によって世界を認識するからです。

もし、onenessの中に、社会的な関係性が入り込んだとしたら、その関係性の内側と外側で分類が発生して、onenessは崩壊し、私たちが社会性を持って認識している世界が構造化されていくでしょう。onenessはしばしば世界の真理として語られます。onenessにおいて社会性・関係性・束縛関係を利用することが難しいとしたら、onenessの世界観の上で世界を捉えるには 自分自身によって自分を定義 する再帰性が欠かせないものになります。

再帰性は、自由に関する創造的な具体化を促してくれます。この自由は ‘関係を持たない——relation free, 束縛がない’ といった、何かからの自由ではなく ‘自分自身を自分で定義する, 自分の認識——独立背反事象の具体化とその確率分布の幻視 を自分で決める’ といった、自己決定権としての自由です。 ‘社会性や束縛からの自由’ というある意味破壊的な現象とは対照的に ‘再帰性による自由’ は自己概念に関して創造的な現象です。

最近、スピリチュアルにおける悟りと引き寄せが対照的だという話を耳にします。その対照さを自由の概念から捉えるなら ‘悟り型の人は社会性からの自由を志向する’ のに対し ‘引き寄せ型の人は再帰性による自由を志向している’ というようにも言えるかもしれません。

‘束縛を減らすこと’ も ‘自己決定権を増やすこと’ も、同じ自由を具体化する上で、異なる表現を与えただけです。このような自由の双対的な側面について、onenessの概念は自己決定権の存在社会的束縛の存在を両立する、ある種の自己矛盾にも思える統合を提示することができます。

それは例えば ‘自己に原因を求める’ のか ‘社会環境や世界に原因を求める’ のかという対立について 世界に原因があり、そして私が世界だ と答える考え方を可能にするということです。これはとても力強い呪文ですね。辛い目にあっても世界のせいにできるし、自分の反省点を踏まえて前に進むこともできます。この考え方には、自己責任でありながら、他人に対してそれは自己責任だ、などといって問い詰める考え方を生み出すことのない、とても平和な世界があります。わたしも他人なので、他人を問い詰めようとは思わないからです。世界に原因があって私が世界です。そして他人も私です。

なんだか気持ち悪いですか?


世界は、あなたです。


常識の剰余という感情

人間は、関係しています。人間は、{自分や他人、そして存在}に{様々な属性を与え, 解釈をして、そのような理解を生み出している文脈に沿って生きていくこと、存在すること}を{期待し、期待され、期待することを期待され、ときに期待されることまでも期待——再帰的に期待}しています。

‘AとBが関係している’ というのは ‘Aを説明するのに、{Bを使うことができるとか、Bを使うことができるだけのルールが存在している}’ ということです。わたしたちは、知っていることを組み合わせて、知らないことを説明します。わたしたちは、期待していることを組み合わせて、自分や他人を説明します。人間は、何かを関係させることで、自分にとっての普通や常識、ルールを心の中に表現しています。

自分にとって何が普通かは、気がつきにくいです。人間が何かに気づくのは、あたりまえではないことが起こったときです。感情が湧き上がり、自分が関係させていた物事の外側を、目の当たりにすることができます。

世界を感情で 写像——mapping してみましょう。わたしがみる世界にはあたりまえなことと、そうでないことがあります。あたりまえなことは感情を引き起こさないので、感情の空間にあたりまえなことをmappingする, 映し出すとゼロの感情に対応するでしょう。

\[ \begin{CD} 認識しうるものの全体 & \longrightarrow & 感情の全体 \
あたりまえなこと & \longmapsto & 0 \end{CD} \]

そして、あたりまえではないことについては、怒ったり喜んだり悲しんだりするので、それぞれの感情が対応することにしましょう。

どんな出来事ならどんな感情がうまれるのかという具体的な部分は人によるので、今回は考えません。注目するのはゼロになるか、そうでないかということです。物事を分類したときに、ゼロに対応するものと、それ以外のものというのはとても象徴的に扱うことができるからです。

小学校で割り算をやったとき、割り切れない数の割り算を習ったことを思い出してください。たとえば \[ 5 \div 3 = 1 \: あまり \: 2 \] を計算しました。あまりを計算する割り算のことを、剰余と言いますが、剰余の考え方を一般化して、空間に対して剰余をとることで、空間を分割し、要素を分類することができます。

例えば、整数\( \, n \, \)を\( \, 3 \, \)で割ったときのあまりは、\(0 \, \)か\( \, 1 \, \)か\( \, 2 \, \)のどれかになります。整数を\(\,3\,\)で割ったときの剰余を考えることで、整数を\( \, 0, \, 1, \, 2 \, \)という3つの数のうち、どれになるかを分類できるということです。整数全体という\( \, 1 \,\)次元の空間を、3つに分割することができます。

こうしたイメージをわたしたちが感じている日常に適用します。わたしたちは何かを関係づけることによって、出来事から感情を取り出す心的な計算を定義しています。感情は人それぞれの 割り切れない思い--剰余 です。

\( \, 3 \,\)の倍数であるような整数は、\( \, 3 \,\)で割ってもあまりが\( \, 0 \,\)になるように、自分にとってあたりまえであるような出来事は、自分の身に起きても感情が変わりません。そして、自分にとってのあたりまえという、自分が結びつけている関係性によってその外側の出来事に対してさまざまな感情が生まれます。出来事が感情によって分類されています。

remark:写像の像と核

写像\( \, f \,\)で映したときに、映しだされた部分を\( \, f \,\)の(Image)といい、ゼロになってしまうような部分を\( \, f \,\)の(Kernel)といいます。 \[ \require{AMScd} \begin{CD} 空間A @>f>> 空間B \
\parallel & & \cup \
空間A @>f>> \mathrm{Im} f \
\cup & & \cup \
\mathrm{Ker} f @>f\mid_{\mathrm{Ker} f}>> 0 \end{CD} \]
今回のアナロジーでは、様々な感情が像で、あたりまえの出来事全体が核です。 \[ \require{AMScd} \begin{CD} 認識しうるものの全体 @>感情が起こる>> 感情の全体 \
\parallel & & \cup \
認識しうるものの全体 @>>> 様々な感情 \
\cup & & \cup \
あたりまえのこと全体 @>>> 0 \end{CD} \]
\(\,3\,\)の倍数の話だと、像は\(\,3\,\)で割ったあまりの\(\, \{0,1,2\}\,\)で、核は\(\,3\,\)の倍数全体です。 \[ \require{AMScd} \begin{CD} \mathbb{Z} @>3で割ったあまり>> \mathbb{Z}/(3) \
\parallel & & \parallel \
\mathbb{Z} @>>> \{0,1,2\} \
\cup & & \cup \
(3) @>>> \{0\} \end{CD} \] $\,\mathbb{Z}\,$は整数全体。$\,(3)\,$は$\,3\,$の倍数全体。

$\,\mathbb{Z}/(3)\,$は$\,3n=0\,$という関係・約束を$\,\mathbb{Z}\,$に課していることを意味しています。


世界を分割し社会にするもの

感情は様々な形で現れます。恐れ、喜び、使命感。感情に惑わされながら、人は判断をしていきます。感情を観察することで、自分は何をあたりまえだと考えていて、自分は何を尋常ならないと考えているのかを、分析することができます。そして、自分だけでなく、他人についても、その表情や行動から、相手の常識を推定しようとすることができます。

もちろん、必ずしも適切な推理ができるとは限りません。顔がニヤつくのを我慢していたら神妙な顔になってしまう人もいるでしょう。たとえば僕は人がはちゃめちゃな闇を見せているとき、嬉しくてニヤつきそうになるのですが、それを我慢しています。他人の闇を思い出してニヤつきを我慢しているときふと鏡を見たら、めちゃくちゃ他人を心配している困り顔をしていました。あまりに、内心とは全く異なる善良な表情をしていて、自分のことが怖くなりました。それともこれはニヤつきを我慢する社会性のある人間を高評価するよう、遺伝子に組み込まれていたからだったのでしょうか。

いずれにせよ、感情を知るのには表情はあまり当てにならないかもしれません。外面を取り繕うのが上手な人はいくらでもいるでしょうし、むやみに詮索することもありません。それより重要なのは、人によって常識は異なるということです。感情も同じとは限らないということです。

人は他人の行動を約束・予測しながら、自分の行動を決めていきます。しかし常識が異なると、約束の仕方を約束する必要がうまれてきます。約束の仕方を約束せずに、他者の行動を予測しても、一方的な予測でしかなかったりするからです。言わなくてもやってくれるつもりだったというすれ違いは、人それぞれどの程度を許容するのかはともかく、家庭、職場、友人関係、さまざまなコミュニティで発生する(しがらみ)です。

頼みごとはちゃんと口にしよう など、約束の仕方を約束すること--約束の約束 という再帰的な約束を人はめんどくさがります。人間関係が円滑だという幻想のために、約束をサボり、人はしがらんでいき、しがらみが人間関係を大変にします。人間関係を円滑にするために、人知れず犠牲を払うひとと、そうでない人がいるのだとしたら、それが弱者と強者なのかもしれません。大抵の場合、お互いがなにかの犠牲を払っていて、その犠牲もまた約束されておらず、しがらんでいます。

お互いが犠牲を払っていたとしても、それは必ずしも公平な犠牲ではないかもしれません。人それぞれの抱いている常識が不平等な状態で共有されているとしたら、それは非対称なコミュニケーションと言えるでしょう。もし、犠牲を払うことがあたりまえだ、という常識を持ち合わせていなければ、弱者は犠牲を払うことすらできなかったはずです。

犠牲を払わない代償はコミュニケーションの齟齬です。犠牲を払わないことを相手に説得できなければ、弱者はコミュニティに破壊されるでしょう。常識からはみだされた弱者ほど、より高い能力が求められるのが、多様性のない社会です。暗黙のうちにある約束は、柵(しがらみ)となってコミュニティを割り、強者と弱者を分断します。多様性のない世界へと切り分けます。弱者とは、常識からはみ出た剰余である感情を抱く人々です。

人はコミュニケーションを通して、自分の常識と、相手の常識の、最大公約数を大きくすることができます。最大公約数というのは、苫米地さんなどスピリチュアル自己啓発界隈でも頻出する$\,\mathrm{LUB}\,$(Least Upper Bound, 最小上界)の双対概念である、$\,\mathrm{GLB}\,$(Greatest Lower Bound, 最大下界)にアナロジーできる概念です。大学1,2年生くらいで習う数学用語なので苫米地さんを知らなくても聞いたことがある人もいるかも知れません。

こういう言葉を知っていると、

自分の常識を相手の常識との$\,\mathrm{GLB}\,$にすることで、相手を理解できる
自分の常識を大きくして 相手の常識$\, = \mathrm{GLB}(自分, 相手)\,$にするにはコミュニケーションをとろう

などと言って、しょぼい話を飾り立てるのに便利なのでみなさん覚えておきましょう。それに、

目標と自分との最小公倍数を取ろう

とか言うより、

目標と自分との$\,\mathrm{LUB}\,$を取ろう

とか言った方がよくわからなくてかっこいいでしょ。

いえ、物事を構造化して考えを深めるに役立つことがあるので覚えておきましょう。


わたしたちは、ものごとを関係づけることであたりまえを表現し、その関係性で世界を割り、結果割り切れなかった感情のなかで生活しています。わたしの感情わたしにとってのあたりまえから生まれた剰余 です。自分と他者の間の割り切れない感情の、最大公約数を探りながら、日々しがらみを深めたり、ほどいています。しがらみを解くには、感情を物質化、言語化して相手に自分を伝えて再帰的な約束を取り付けるモチベーションを共有するのが現実的です。そうでなければ、自分を捨て去り自分の常識を問い直して社会と一体化する——最後の犠牲を払うことです。とはいえ最後の犠牲は実際には最後とは限りません。社会は壊れるからです。


柵を解放するのは、あなたです。


すべての瞑想は再帰である

瞑想とはいったいなんなのでしょうか。意識の高い人たちが、自分の成功の理由を聞かれて、説明するのがめんどくさいときに、自分の汚い部分を隠すために、瞑想をやっていたおかげだと言って、お茶を濁すための行いでしょうか。世の中には色々な瞑想があるし、どんな瞑想をするべきなのかわからないとか、瞑想にどんな効果があるのかわからないかもしれません。

ですが、どんな瞑想であっても言えることが一つあります。すべての瞑想は存在から再帰的構造を取り出すということです。再帰という概念はざっくり言えば 存在を定義するために存在それ自身を用いるやりかた のことです。具体例を見てみましょう。


呼吸法

呼吸法のような瞑想をするときに取り出している再帰的構造は一体何でしょうか?一定のリズムを刻む呼吸法自分の呼吸を観察し、意図した通りに呼吸を制御する瞑想 です。ひとが呼吸法に従っている時、自分の呼吸を観察することは、自分が呼吸をすることと一致しています(よくわからなければ実際にやってみてください)。呼吸法は行為と知覚の相互作用を通して自己認識が自分を決定するという、再帰的な自由を具体化した瞑想です。自分の呼吸を観察して、制御するという瞑想は、、私という存在の再帰的構造を映し出しています。

呼吸法は、漠然とやってもそれなりに体験はあるかもしれないし、ないかもしれませんが、その時何を見ているかによって、体験が様々に変わります。呼吸法が暇すぎて飽きるなら、呼吸法におけるこうした再帰的構造についての認識を抱きながら呼吸法をしてみても、また違った体験が得られるかもしれません。


視覚化

視覚化の瞑想は、感覚することと想像することを一致させる瞑想です。これは呼吸法とアナロジーできるので、視覚化は再帰的構造を取り出しているとわかります。アナロジーの具体的な中身は

A. 感覚すること = 呼吸を観察し数えること

B. 想像すること = 呼吸を制御すること

という対応関係です。そして、視覚化呼吸法もどちらもこのAとBを一致させるものです。自己認識によって自分が決定されるというわたしの再帰的構造を取り出しています。


超視覚化

超視覚化の瞑想は、

  1. (視覚化を通して得られた)自己認識によって自分が決定されるという意識と、

  2. それに反する社会的な態度

という、私が持っている二つの側面から生み出される 矛盾, 反発を対象化して、破壊する という瞑想です。

この破壊は、矛盾した存在の自壊とも言えます。この矛盾は、力づくでも壊せるかもしれませんが、適切に観察することで、矛盾である以上、自然と自壊します。もし必要があるとすれば、背理法のように、矛盾を推論する羽目になった仮定を観測して、破棄すると、近道かもしれません。超視覚化が取り出す再帰的構造は、矛盾した存在はそれ自身によって崩壊するという構造です。

世の中には様々な瞑想があります。あらゆる瞑想は、再帰的構造を取り出しているでしょうか。


確かめるのは、あなたです。