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双対性の破れと回復

人生の天才だいたい幸せ、どうもねんてんです。

人は世界認識をするにあたって、様々な観点からバランスを探ろうとしています。たとえば感動できる映画を見てもう泣きそうという瞬間に隣で見てる人がギャン泣きしてしまったら自分の感動が冷めて泣けなくなってしまうという人が存在しがちです。人間は社会性を発達させ、役割を分担することで生存しがちでした。他人が感情的になっているときには、自分が感情的にならずに判断するために、身体が反応して感情を冷ますようなのです。みんなが感情的になって暴走してしまうと、コミュニティにおける人々の観点の多様性が失われ、選択を検討する余地が失われます。そのコミュニティがより適切な選択をする確率を高めるために、コミュニティは人間たちの判断能力の中に、無意識的に役割を導入することで人間たちの意識を操ってきました。人間はひとりひとり独立した自我を持っているように見えますが、人間を集めて集団にしてあげると、役割分担をしはじめて、結果的に個性が隠された集団としての振る舞いを生み出しました。私が論理的なら、あなたは感情的。あなたが合理的なら私は直情的。私が暴れたらあなたが取り押さえる。コミュニティの維持のため、状況に応じて役割がときに流動化しつつ、全体としての恒常性(=ホメオスタシス)が保たれます。つまり、こうした役割分担はコミュニティにおけるある種のエネルギー保存則を導く現象でもあるということです。

双対性という概念があります。ある一つの対象が二つの世界に存在し、ある一方が強まるともう一方は弱まり、ある一方が弱まるともう一方は強まるという、存在における二つの側面の関係を、双対性といいます。人間は社会性を持った存在です。社会性を持つというのは、自己概念が社会に拡張されている存在だということです。肉体的に特定されるこの私は、あるコミュニティにおける一つの側面としての私であるということです。あるコミュニティという対象がわたしとあなたという二つの世界に存在し、わたしがやらないことはあなたがやり、あなたがやらないことはわたしがやるという、人々の役割分担のなかに、双対性が具体化されています。人々のこうした営みによって、コミュニティは維持されています。私たちの意識はあるコミュニティという形而上的存在に身を委ねながら生きています。そのコミュニティは、多種多様であって、自分の理想の中に存在するものでもあるし、生まれた時から持ち合わせているものでもあります。あるコミュニティがどの程度わたしの行動に対する支配力を有しているかも様々です。わたしを突き動かすものがどのようなコミュニティであったとしても、わたしを動かすのはそのコミュニティがわたしに対してどのような役割を与えているか、そしてわたしにできることは何であると知っているのかによります。アカシックレコードに接続済みの皆様であれば、わたしにできることが何であるのかを知るという問題は解決済みであることでしょう。今回の問題は、わたしを作り出しているコミュニティによって与えられた役割による支配についてです。コミュニティの存在は、究極的には幻想として切り捨てることが可能ですが、幸せな人生を作り出す上では必ずしも排除することが得策な状況ばかりではありません。人々はコミュニティに埋もれ、役割に没頭することでかなりお手軽に幸せを生産することが可能なのです。しかしながら、自分には合わないと感じる社会も時には数多く直面することもあるでしょう。多くの場合 ‘自分にできると信じていること’ と ‘コミュニティから割り当てられた役割’ に不整合が発生していることによって、そうした苦しみは発生しがちです。

一つには、わたしの信じるわたしのできることを書き換えるというプログラムによって、そうした苦しみを終わらせることも、もちろんできるでしょう。たとえば、世の中には同性愛を ‘治療’ する霊能者というのも、ひそかに存在していました。自分の判断機能を書き換えることで、社会から割り当てられた役割のままに、コミュニティを維持するため、高次元存在の奴隷として生殖に励むのも、没頭できさえすれば幸せなことでしょう。その幸せを選択した方について、いまさら不幸になれなどというのは酷なことです。

話がそれてしまいました。 ‘自分ができると信じてること’ $=$ 権能 と ‘コミュニティから期待されること’ $=$ 役割 の不整合という、苦しみを生みがちな問題に対して、一つには権能を書き換えるという方法がありますが、一方で役割を書き換えるという方法もまた存在します。つまり、コミュニティを書き換えるということです。さて、私たちに役割を与えているコミュニティとは一体何でしょうか。私たちは生まれてからなんとなく、世の中というよくわからない何かに縛られて生きていると感じる人もいることでしょう。自分を縛る世の中とは一体何なのでしょうか。こうした疑問に対する最も速い思考の方法は、わかっていることだけによってその言葉の意味を定義することです。つまりコミュニティとは 所属する一人一人に役割を映し出す存在 であると定義して思考を始めるということです。この思考は、私を縛る世の中を、逆に私の定義によって縛り返しているということです。そこから自由な思考が始まります。たとえば「もしわたしが、あるコミュニティの中で一人一人に ‘この人はこういう役割がある’ といって[役割を映し出す, 人々を理解する]とき、わたしもまたコミュニティという形而上的存在と一体化しているということです。この割り当ては生き霊の一種であると呼ぶこともできるでしょう。割り当てられた役割が納得いくなら困ることはないかもしれませんが、ヤバい場合は、特にスピリチュアルな人は生き霊がどうのといって困りがちですね。」という思考を生み出し、コミュニティについての理解を深めることができます。定義することによって、概念は私の手の中におさまるようになります。そうして思考を進めていくうちに、もし不都合な点があれば定義を改良してもよいし、改良しなくてもいいのです。

さてここで、どのようにしたらコミュニティを書き換えることができるでしょうか。コミュニティとはわたしが幻視する人々に対する役割の割り当てです。そして、わたし自身に対する役割の割り当てです。わたしというのは様々なコミュニティに属し、その時々で役割を切り変えていきます。いくつもの異なる役割を併せ持った存在が わたし $=$ 和多志 です。人はときに、多くの相反する役割によって自分が抱える矛盾に苦しむことになりますが、一度冷静にすべての役割を、感覚を、心の中で受け止めて、すべてを包摂してみてください。幸せな気持ちと苦しい気持ちの両方を同時に受け止めてください。見えている状態と見えていない状態の両方をみてください。コミュニケーションができる状態とコミュニケーションできない状態の両方を同時に感じてください。矛盾に苦しんでいるのはコミュニティとしてのわたし、ある一つのコミュニティに縛られたわたしなのです。なぜなら和多志はすべてのコミュニティを俯瞰して、和多志はすべてのペルソナを使いこなしているからです。すべての役割が和多志であると受け入れたとき、コミュニティに割り当てられていた役割はもはや和多志を縛ることはできません。わたしに対して役割を割り当てている、わたしが幻視しているコミュニティという概念は、相反する矛盾した役割によって崩壊し、和多志がみているコミュニティは矛盾が統合され、矛盾を許容できる緩いコミュニティへ、新しい次元へと移ることになります。

さて、以上のお話は、コミュニティの恒常性を維持するためのわたしとあなたの間に発生する役割の割り当てという双対性、その破り方についてでした。しかしそもそも何でそんなことをするのかと言えば「 ‘自分ができると信じてること’ = 権能 と ‘コミュニティから期待されること’ = 役割 の不整合 」をどう解決するのかという問題があったからです。わたしに割り当てられている役割が矛盾していることを見つめて受け入れることで、背理法的に[あるコミュニティという前提を棄却, コミュニティを概念的に破壊]し、より[器の広い=条件の緩い]コミュニティに更新していくことを、役割に対するアプローチであるとするなら、もう一つの可能性である、権能に対するアプローチと比較検討をしたくなるところです。なぜなら ‘役割に対するアプローチ’ と ‘権能に対するアプローチ’ の両者は、いかにも双対的な関係があるように見えるからです。

‘権能に対するアプローチ’ とは、自分にはできないと思っていることを、できると思えるようにすることです。盲を啓き、因果を見通すことで、それまでできないと思っていたことも、やればできると思えるように変わることです。本当にできたかどうかはやって分かることですが、ともかくそう思えるようになるということです。あるいは、自分の思い込み以上に、技術的に修行が必要な物事もあるでしょう。その場合、いったん自分にはそういう役割があるのだと思い込み、自分が幻視する自己コミュニティの器を小さくして、修行に専念することで、技術を獲得し自分にできることを増やすというパターンもあるでしょう。なるほど、権能と役割の間には「一方が強まれば、もう一方は弱まる」という双対性を示す部分も少しはあるようです。そしてその保存量は幸せなのかもしれません。実際には幸福はいくらでも変わりうる量ですが、ざっくり言って ‘幸せ $=$ 器の広さ $+$ できること’ という幸せの方程式があるかもしれませんね。このように、双対性を手掛かりにすることで、概念の関係性を表現するきっかけを作ることができました。皆さんも日常の様々な場面で双対性を見つけて、その関係を通して何が保存されているのかという、高次元的な視点から物事を捉え直してみても面白いでしょう。

双対性はまだ終わりません。まだメタ認知していけます。幸せが出てきたのなら、苦しみも出てきて良さそうなものです。自分の中の幸せが大きくなるのなら、自分の中の苦しみは小さくなりがちでしょうし、自分の中の苦しみが大きくなるとき自分の中の幸せは小さくなりがちでしょう。幸せと苦しみはどうみても双対性を示しています。幸せの双対をとったら苦しみが出てくるし、苦しみの双対をとったら幸せが出てくるということです。ではこの関係によって、いったい何が保存されていたでしょうか。もうわかりますね。幸せと苦しみを併せ持つのは、わたしです。では、さらにメタってみましょう。わたしの双対は……

わたしの双対は、▓▓▓▓▓ を決めるのは、あなたです。