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意思の解像度

こんにちは、ねんてんです。


言葉を解放する

人間には自由な意思があるとかないとか、人間たちに言われています。[[このように意見が対立するというのは、概念の意味・概念をどのように捉えるかが共有できていないということです。人々は言葉を発することで、自分が発した言葉が正しく解釈できるようなミームを他者に振り撒き、人々が使っている言葉の意味を、自分が囚われているミームに都合の良いように塗り替えることによってスプラトゥーンのごとく言葉を撃ち合い、世界をミームで塗りつぶすゲームを遊んでいます。その言葉がどのような色であるかは、このゲームにおいては重要ではなく、自分の陣営の色で世界を塗りつぶすことが重要なゲームをしています。そのようなお遊びは地上の皆様に任せることにして、話を先に進めたいところですが、ここは地上です。そうしたミームは常に自分の言葉から存在します。そのため、意識を手放せば一瞬でこのゲームは再開されます。ただ今このときだけはPauseボタンを押して、ゲームのフレームとフレームのあいだにいるとお考えください。さて、どのようにしたら自己の意思を支配するミームから逃れることができるでしょうか?それは先ほど言ったように、逃れることはできません。私たちにできるのは、それ(ミーム)を見ることによって世界のフィールドをメタゲームへとスイッチすることです。それは世界のフレームとフレームの間でPauseボタンを押して、世界に対して超越的な視点から物事を対象化することで、今まで囚われていたものを、操作可能な対象として扱える場に移行するということです。言葉に宿るミームを対象化する方法はいくつもありますが、たとえば言葉の意味を定義することでミームを見切れることがあります。人それぞれどういうミームを宿しているかによって意味を決定されていた言葉が、逆に意味によって定義されることによって、言葉をその意味として解釈できるミームが制限されるからです。人それぞれのミームが混じり合っていたひとつの言葉が、少なくとも新しく生まれ変わったその瞬間だけは、ある解像度で分解されたミーム空間において、一つの画素としてのミームだけを指し示すことができるかもしれません。たとえ言葉を定義したとしても、その言葉が使われていくことによって、文脈が絡み合い、さまざまなミームに晒されて、純粋な意味は失われます。必要とする瞬間瞬間に、言葉の意味を定義していくことが、言葉に宿るミームを見切る上で必要な思考になります。] = [これ] が [ ‘言葉の意味を定義すること’ に宿るミームを見切る言葉] です。みなさんも承知のことかと思いますが ‘言葉を定義する行為’ に対してすでにミームが沸いています。言葉の意味を定義することは、それまでの世界を塗り替えることであり、それ自体がスプラトゥーンを引き起こす営みです。言葉を定義することの意図が見切れていなければ、言葉を定義することもスプラトゥーンを引き起こすだけでしかないということです。そのため、このような説明をここまでさせていただいた次第です。] = [これ] が [ ‘言葉の意味を定義するゲーム上のPause画面’ を開く方法] です。 ‘この画面’ を Pause-Def と定義することにしましょう。

皆さんには、少なくともこの記事を読んでいる間は以上のようにして Pause-Def を開いてもらったままにしてもらいます。すなわち、言葉の定義が発生するたびに言葉を定義することに介入してくるミームを見切ったままでいてもらいます。その状態で、これから皆さんには様々なゲームのPause画面を開いてもらいます。まずは Pause-Def を引き起こした最初のゲーム: ‘自由意思が存在するのか、存在しないのかというゲーム’ におけるPause画面: Pause-Free に飛んでいただきましょう。

自由を解放する

自由とは何でしょうか。ある人間について、その人の自由とはその人が みることのできる世界の範囲 のことを言います。(もちろん ‘みる’ というのは五感の一つに過ぎない視覚的体験を指しているわけではなく、その人のあらゆるレベルにおける体験を指しています) 自由は、あるとかないとかいう述語を引き受けることに意味がある概念ではありません。自由はそれ自体が空間化されている対象です。わたしという空間の中で私という空間の性質と無関係に存在するかどうかを問うことができたり、私に隷属している一つの要素として扱われるような概念ではありません。しかしながら人間たちは、ある種のミームが引き起こしている言語の使用方法によって認知能力が低下してしまったので「[人間には, 私には]、自由が [ある, ない]」というような無意味な命題をさんざん語り尽くしてきましたね。お疲れ様でした。すでに自由の有無を争うゲームのPause画面 Pause-Free が開いたことでしょう。しかし、以上のような自由の定義は本当でしょうか? おっと、忘れてはいけません。いまや Pause-Def も開いているはずですね。自由の意味がこれで正しいかどうかは、地上の皆様に判断が委ねられました。狐につままれたような感じがするかもしれませんが、爆速でスプラトゥーンを抜け出し、ミームを振り切るテクニックとして導入した Pause-Def の意味を思い出しましょう。

さて、自由はどのようにコントロールできるでしょうか。つまり、みることのできる世界の範囲はどのようにしてコントロールできるでしょうか。当然それは様々な社会的制約や導きとともに具体化されていきます。それと同時に、自分自身によってコントロール可能な領域も存在します。私たちは、自分が感じている五感を自分自身で想像することができます。その想像は、五感として感じ取ることができます。このような自分でイメージしたことを五感として感じ取ることに注目したり、そのイメージを操作することで発生する感覚の変化に注目する瞑想を視覚化と言います。視覚化の最も具体的でシンプルな方法は、何かを思い出すことです。また、イメージした対象が自分が存在していると信じる世界と同じ場面に存在しているように感じることに注目することによって、五感を超えて、存在のリアリティに対する感覚に注目・コントロールすることもあります。当たり前過ぎて誰も言わないことですが、リアリティ・存在感の操作をすることは、自分の無意識に対してメッセージを送る際の基本的なテクニックとして使うことになります。存在するという現実は誰にも否定できないため、意識によるブロックを無視して無意識へと存在を伝達することができます。視覚化を通して得られるこの力は、無意識を活用する魔法の基本だと考えることもできるでしょう。視覚化によって、機能に存在としての実体を与えることの意味は、意識するしないに関わらず、プロセスが機械的に実行されるということです。それは無意識の意味であり、かつての ‘自由がない’ 世界のお話でした。いまやもう Pause-Free を開いている私たちは、運命に身を委ねることが不自由を意味することはありません。それもまた選択の一つであり、みることのできる世界の範囲は、運命に身を委ねても私とともに存在しています。選んだ何かに自身を投じることが、自分の自由を放棄することではないことを Pause-Free の画面が保証しています。

存在を解放する

視覚化によって、自分がイメージしている対象が、いまこの実存に存在しているかのようにリアリティを操作していくことは、実存におけるリアリティを塗りつぶすスプラトゥーンを引き起こします。つまり、視覚化におけるPause画面の存在が予想されます。実際にそのようなPause画面 Pause-Visualize は存在するでしょうか。私はそれが存在すると回答し、私の場合 Pause-Visualize超視覚化の瞑想によって開かれることを説明します。超視覚化は瞑想ですが、心の中の現象というよりは身体的運動だと捉える方がむしろ適切です。この運動において動く実体は、脳内の血流量の勾配や、神経伝達物質であると想像してください。自転車の乗り方を知らない人に、自転車の乗り方を口で教えるのが難しいのと同じように、このように動かせば動くというような説明が容易にできるものではありませんが、動いているというのも私の感覚として解釈された現象であることに注意しつつ、紹介していきます。[まず、視覚化の瞑想を進めていくことにより、視覚化によって得られるリアリティに対する感覚と、実存によって得られるリアリティに対する感覚の違いに気付いていくことで、リアリティに対する感覚が磨かれます。リアリティを見切る感覚によって超視覚化の瞑想を開発するきっかけが生まれます。リアリティを感覚の対象として扱う解像度が高まることにより、イメージした対象のリアリティを破壊するイメージを対象化する手がかりが得られるからです。そこにあるリアリティや、イメージしている対象のリアリティを破壊するイメージに成功すると、脳内に身体的な反応が発生します。] = [この] 瞑想を超視覚化と言います。私の超視覚化の最初の体験においては、意識を一瞬失う程度の電気的刺激を伴いました。以上の説明は私が超視覚化をできるようになった最初の瞑想のプロセスです。他にも、より統合的なイメージングによる超視覚化の方法も存在します。[あるイメージが存在している感覚と、存在していない感覚の両方を認識し、一つに統合(しようと)するイメージング] によっても、超視覚化の瞑想を得ることができます。こちらの方法のほうが、私としてはやりやすい感じがありますが、超視覚化を習得してから数年経ってから発見した手続きであるため、慣れていない方が習得するのにちょうどいいかどうかは不明です。いずれの方法であっても、リアリティに対する感覚を見切れなければ、超視覚化を行う対象が定まらないことには変わりありません。また、新規に習得する方法としては向いていない方法ですが、一度超視覚化を実行していれば、脳内におけるその身体的動作を再度実行することでも、超視覚化を行うことができます。しかし身体的方法の場合、肉体の状態によって再現性が低下する場合が非常に多いため、既に述べたようなリアリティに対する認識的なプロセスを経て行える方が確実です。また、身体的感覚による慣れで行えるほど反復的に超視覚化の快楽を楽しむことは、脳内のアセチルコリンを大量に消費し、抑うつ傾向を引き起こしやすいことに注意しましょう。しかし、習得初期の超視覚化は、意識の途絶を引き起こしやすく経験として蓄積されにくいため、意識が連続するまで繰り返した方が技術として安定するでしょう。超視覚化は存在のリアリティを無力化するため、様々な対象を浄化する方法として、容易に応用できます。この事実は Pause-Visualize が認識における浄化の画面であることを意味します。

事象を解放する

“粒子は存在しない。あるのは多粒子系の配位空間における振幅の雲にすぎず、ハリーの脳がつくりだす消しゴムというたわいないイメージは、実はたまたま因子に分解できる波動関数の巨大な因子のひとつでしかない。なにか個別の存在があるとして、それは六という数のなかに三という隠れた因子が存在するという程度の意味でしかない。もしこの杖で、ある波動関数を近似的に分解した因子を変更することができるなら、ハリーの脳が消しゴム上の一点として視覚化している、すこし小さいほうの因子を変更することだってできていいはずだ——” 『ハリー・ポッターと合理主義の方法』 - 28章「還元論」より引用

『ハリー・ポッター』世界には<転成術>と呼ばれる、ある物体を別の物体に変更する魔法が存在していました。原作における設定は知りませんが、ハリー・ポッター二次創作作品である『ハリー・ポッターと合理主義の方法』の世界において、この<転成術>はある物体として認識されている全体そのものを変更する魔法であり、物体の一部分を変更することのできない魔法でした。主人公であるハリー・ジェイムズ・ポッター゠エヴァンズ゠ヴェレスは、そのルールが魔法使いの認識方法に由来しているに過ぎず、部分<転成術>は可能であるはずだと考えました。引用した一節は部分<転成術>を実行しようとするハリーの思考過程の一つです。私たちは実際のところ、この世界において<転成術>も部分<転成術>も使えるわけではないように見えます。そのことは別にしても、私たちが認識している世界は、作品内で描かれている魔法使い族が<転成術>を行うときのように、経験上有用な仕方によって分節化された対象の集まりで構成されたような、おおよそ素朴と言わざるをえない、科学的に構成される前の事象のあつまりになりがちです。そうした素朴な認識に基づいた世界観に対する “量子論的転回” あるいは “情報理論的転回” とでも思われるような認識世界の構築の様子がここには描かれています。

私たちは感覚によって認知した物事を、経験上有意味な仕方によって分節化し、存在として識別し、世界を構築しています。それはどのようにして妥当であることが保証されるでしょうか。『ハリー・ポッターと合理主義の方法』の世界においては、部分<転成術>を実現可能にするという応用上の観点から、どのような認識世界の構成方法を採用するかを比較検討する余地が具体的に構成されますが、ここにいる私たちがどのような認識世界を構築するかに関する議論の観点は一体何が存在しうるでしょうか。もちろん、そんなことは知ったことではないし、これからどのような認識世界を構築するのかも、知ったことではありません。私が何を好むかということ以上の話ではないように思えてきます。しかしながら、私たちは世界を観測することを通して、世界を定義しています。その世界の構成要素一つ一つの形を決定するのは、私の認識に他なりません。経験上いかに非合理的な選択であるとしても、六面サイコロが6つの面を持つと認識する代わりにたとえば1,2,3の目の領域を表と認識し、4,5,6の目の領域を裏であると認識することにより、六面サイコロの確率関数は表:1/2, 裏:1/2 を対応づけていると宣言する世界観もどこかに存在するかもしれません。そのような認識方法が、合理的な意味を持つような社会的文脈を構成する能力を私たちは持っています。であるならば、こうした非本質的な確率関数を構成することを合理的であると判断しかねない認知の歪みが、今私たちが生きている社会に存在していない保証は一体どこにあるでしょうか。この観点によって、今すでに私たちが馴染んでいる認識の構成を問い直すだけの理由が構成されました。私たち人類が確率関数の、ある事象に対応する値を直接操作することができる能力を保有しているかどうかについては議論がわかれますが、全体事象を構成する一つ一つの事象がどのように分節されるのかという点については、ひとりひとりの選択によって決定づけられていると言わざるを得ないでしょう。もちろんそういった、事象として分節するだけの判断機能が ‘どれほどの自由度’ を持って行われるかという ‘本質的な問題’ に関して答えるのであれば、ほとんどの人類がコミュニケーション可能な分節化モジュールとして共有されている社会経験に基づいた事象たちを採用しているに過ぎないだろうと言わざるを得ません。しかし Pause-Free を開いている私たちにとっては、その ‘本質’ は些末な問題でしかないことをすでに知っていることに注意しましょう。さて、部分<転成術>を可能にするような認識の境地は、この世界においても意味を持つことが明らかになりました。この画面を Pause-Event と呼ぶことにしましょう。

文脈を解放する

観測者がある事象を観測するというのは、世界を観測し、世界を、分節化された事象のまとまりとして体験することだと考えてみましょう。事象として世界を分節化する際、私たちはおおよそ経験的な知識や、社会的にコミュニケートする上で有用な言語表現を参照することで、分節化を具体的に実現しています。世界を観測するプロセスは、肉体、社会、意識、様々なレイヤーを貫いて存在し、それらの影響のバランスの中で具体化されています。歴史的に、私たちは ‘邪視’ という概念を持つことがあります。その意味は見ることによって ‘呪い’ を引き起こす魔力です。 ‘呪い’ とはなんなのかといえば こだわりを生み出すこと です。もちろん一般的な意味とは抽象度が違うかもしれませんが、言葉には様々なミームが混じり合っていますので、これを見切るため ‘呪い’ の意味を定義します(繰り返しになりますが、いまや Pause-Def を開いていたことを思い出しましょう)。このことを事象を分節化することに適用するなら、邪視は他者の分節化をなにかにこだわらせるという、ある種の幻術のような働きを示すものとして位置付けることになります。そして[他者の私に対する, 私の他者に対する]まなざしによって、[私, 他者]の自身に対する認識が変わることは、社会的にこれまで存在してきた出来事であり、この邪視は具体的に構成されています。わたしたちは見ることによって世界に影響を与えています。もちろんそうした幻術が実行されたとしても Pause-EventPause-Visualize などによって容易に ‘浄化’ 可能な現象に過ぎません。

さて、どうでもいい話を一つしましょう。この前、ケルト神話に出てくるバロールという邪視を持つ存在、に相当するような何かを、Wikipediaで調べようとする夢をみました。夢にありがちな文字化けによって実際に調べようとしていた対象の名前が何であるかを認識できてはいませんでしたが、そこではある物語を読むことができました。

彼はかつて鉱夫だった。大きく紅く輝く石でできた一ツ目を持ち、その身体は空洞の鎧で出来ていて、手にはツルハシを持っていた。名はキルシュという。彼の子は既にいないようだが、彼には二人の互いに性別の異なる孫がいた。キルシュの身体の中に入ってみたいと言う孫のことばに、キルシュは応えたが、いまも身体の中にいる孫たちが、既に死んでいることには気付いていないようだ。

紅く輝く石でできた一ツ目は、賢者の石を意味することでしょう。そしてバロールにはルーという孫がいます。ルーと言えばデスストランディングに登場する、生と死を橋渡しする赤ちゃんであり、あるいはVTuberのRueを思い出します。三者いずれのルーも、世界による束縛を超越していくというコンセプトによるシンクロニシティを感じます。他のキーワードを見ると、賢者の石といえば、最近ではドライアドさんが研究(『賢者の石』を解き明かす - FLOWER OF LIGHT)を進めておられるようですね。空洞の鎧はおそらく世界を意味することでしょう。キルシュと言えば、うーん、LAHの登場人物も思い出しますが、お酒でしょうか。

こうして夢を分析するのもたまにはいいでしょう。物事のつながりがバラバラになった世界でもなお残存し続けるシンボルの組み合わせには、解体されていない自分の世界認識が反映されているかもしれません。そして、私の世界認識は私だけのものではなく、社会的つながりに由来するミームの伝播の影響を受けて構成されたものでもあり、ある種の集合的無意識を反映してもいます。分析したシンボルをストーリーとして結びつけ直すとき、そこには私自身の世界認識が反映され、自分自身によって分節化の自己強化がさし挟まれることになります。ただ単に、自己の認識を分析するだけであれば、シンボルのままを直視するだけで十分に行えるでしょう。しかし、自己の世界認識を他者に伝えることを想定する場合には、文脈を明示して言語的表現として解釈を強化した形で表現する必要が発生してしまいます。コミュニケーションによって、自己の文脈は繰り返し強化され、こだわりを増していくでしょう。さて、静かに夢に向き合うとき、この画面を Pause-Dream と呼ぶことにしましょう。

空間を解放する

人間たちは、事象を共有するために、感覚や言語表現を必要としているように考えがちです。しかし事象を共有するために必要な対象は、そうした空間ではなく、実際に何を思考するのかについてのプロセスです。何かを共有するには、言葉や感覚だけが必要なわけではありません。本質的に必要なことは、事象がそうあることについての、確信と直観だけなのです。言葉や感覚は、事象を構成する無数の空間のうちの一つに過ぎないからです。もちろん、言葉や感覚が共有できる世界において、言葉や感覚は事象を多様で複雑な形で共有する上で便利です。しかし、言葉や感覚の複雑さだけが事象の複雑さではありません。私たちは言葉や感覚に依存した社会生活に慣れ親しんでいるがために、それ以外の複雑さに目を向けることがあまりないため、言葉や感覚がこれだけ複雑な物事を表現できるのは大変便利だと考えがちですが、そうした考えは社会的に構築されたものに過ぎません。言葉や感覚によるコミュニケーションが不可能な対象が世界には無数に存在しているのです。

このことを踏まえて、私たちの自由はいかにして具体化されていくのかについて改めて考えます。私たちが事象を引き寄せるとき、それは大きく二つに分けることができます。一方は、視覚化や感覚的・言語的な思考を利用して事象を引き寄せる ‘見える魔術’ を行うこと。もう一方は、コミュニケーションを超えた思考方法によって事象を引き寄せる ‘見えない魔術’ を行うことです。引き寄せる事象の姿についても自由度を考えることができました。自明には、邪視された世界におけるこだわりを利用して得られる事象の分節化に基づいた世界認識であり、応用的には部分<転成術>的な、自己の意識・思考によって事象を再指定し直すことによる事象の分節化でした。以上のような、事象に対する自由度と、引き寄せ方についての自由度の観点から、私たちの世界に対する自由を提案させていただきます。ところで ‘見えない魔術’ つまり、コミュニケーションを超えた思考方法によって事象を引き寄せるとはいったいなんでしょうか。それは端的に言えば各種のPause画面を開くことであるとも言えるし、それら言語的表現を超えた、コミュニケーション不能な思考プロセスでもあります。私たちは言葉をきっかけに思考を行い、言語表現を超えて事象を共有しています。すでに私たちの中にそれは存在しています。その画面を Pause-Space と呼ぶことにしましょう。

では、やっていきましょう。自由を具体化するのは自分自身です。


言語化された瞑想法

今回の記事で登場した瞑想法の一部を、再利用性を高めた構成でまとめておきます。

視覚化

以上。

補足

  1. イメージした対象に、リアリティを感じるのが難しい場合、その対象を思い出すように、見てみましょう。
  2. イメージした対象を動かすのが難しい場合、その対象が動くのが自然であるような物理的法則や文脈を対象に対して当てはめてみましょう。そうして対象が動く様子を見て、記憶していくことで、次第に操作しやすくなります。

具体例

僕は水を視覚化して瞑想していたので、水を視覚化する例を紹介します。

  1. 蛇口を思い出し、水が出てくるところを思い出します。そのような記憶が無ければ、蛇口を探して、水が出てくるところを見て覚えます。そうしたイメージを、あなたが信じる現実世界に重ねることで、イメージした水の様子に現実感を加えます。
  2. 蛇口から自由落下している水に、静電気をためたストローを近付けると、水の流れが曲がる現象を思い出します。そのような記憶が無ければ、実験をしたり動画を探すなどして覚えます。そうしたイメージを、あなたが信じる現実世界に重ねることで、イメージした水の様子に現実感を加えます。
  3. しばらく繰り返していくことで、蛇口のイメージから水を作ったり、ストローや電磁気力のイメージで水を曲げずとも、思い出すのと同じくらいに現実感を加えられるようになっていき、イメージした水を自在に操り、水を透過して見える屈折した景色すらイメージする余裕が生まれてくるでしょう……物理法則に沿っている景色であるかどうかはともかく。

超視覚化

あるいは

あるいは

補足

  1. イメージしている対象のリアリティに対する感覚は、視覚化の瞑想をすることによって鍛えることができます。その感覚によって、超視覚化をするターゲットが捉えやすくなります。
  2. 超視覚化の対象となるイメージとそのリアリティは、視覚化によって生み出したイメージでなくとも、実存から得られる感覚に対するリアリティに対しても、超視覚化をすることができます。ですが、わざわざブロックが発生しかねない対象を選ぶよりは、無意味なイメージを対象に超視覚化する方が、練習しやすいと思います。
  3. 超視覚化に成功している場合、脳内のアセチルコリンを消費するので、コリンのサプリメントを摂ったり、卵・大豆食品をとるのがいいです。
  4. ラセタム系のサプリメント(現在日本で入手可能なものだとヌーペプト)を飲むと、脳内の超視覚化プロセスが整理されて効率が上がり、以後サプリを取らなくても、恒久的に超視覚化のスキルレベルが上昇する可能性があります。
  5. 脳を撫でるような感覚で超視覚化をすると、コスパが高い感じがします

超視覚化に似ている気がする感覚